佐藤郁哉・芳賀学・山田真茂留『本を生み出す力 学術出版の組織アイデンティティ』(新曜社)

本を生みだす力

本を生みだす力

知のゲートキーパーとしての出版社、編集者に関する学術的研究。これまでの出版危機に関する言説が、本が売れなくなった、書店数が少なくなったというようなマクロの視点、ジャーナリスティックな視点からのものだったのに対して、出版社へのヒアリングを中心とする事例研究を通じてミクロの視点に徹しているのが特徴的。また完成した本がどう流通し読まれるかではなく、本が完成するまでにどう企画が立てられ、どんな本がどのような選別プロセスを経て出版に至るかという出版社内での意思決定を主題にしているのも独創的だ。ハーベスト社、新曜社有斐閣東大出版会という4社への取材が基になっているが、そこから浮かび上がってくるのは 、非営利団体の大学出版局がモノグラフの出版に専念するという形で専門書の出版を担ってきた米国とは異なり、商業出版社が教科書、一般書、教養書と併せて学術書を出版してきたため、経営的に存立し続けるために専門書、教養書、一般書、教科書の間で適宜ポートフォリオを組む必要があるという日本に固有の事情だ(専門書の損失を教科書の利益で埋め合わせるような)。ポートフォリオの組み方は出版社の規模や何を出版したいかという出版社のアイデンティティにより異なる。また、規模やアイデンティティは出版社により異なるが、規模やアイデンティティの相違を超えて日本の出版社に共通に見られるのは、編集者が企画を立てる際に著者である研究者との人脈を利用したり、研究者と編集者が若い時から年配になるまで各々の職業生活の長きに亘り付き合いが続くといった現象だ。研究者と編集者の個人的な繋がりは欧米の出版界でも見られるであろうが、専門書だけでなく教科書や教養書も自社のラインアップを構成する日本の出版社では、研究者との繋がりが専門書だけでなく教科書や教養書の出版に際しても利用される(専門書を刊行した研究者に教科書の執筆を依頼するというような形で)。商業出版社の編集者と研究者の人脈に基づく恊働作業、並びに出版社の理念や出版人の志が相俟って専門書が出版されるというのが、本書が描く特殊日本的な学術書の出版事情である。ここには欧米の学術コミュニティで一般的に実施されている査読制度は見られない。専門書の出版が商業出版社の中で教科書や教養書と並んで出版され、編集者個人によるスクリーニングや編集会議等で刊行の可否が決定されてきたことが査読制度を不要とした事情だ。専門書の出版に関わるこのような特殊日本的状況、現場の状況を無視して上からの改革で外来の査読制度を輸入しても専門書の出版に弊害を齎すだけだと、最後のところで近年の業績評価制度に代表される大学改革が批判される。
国立大学の法人化に始まる外部評価制度、成果主義の導入については、現場の研究者からは「評価疲れ」のような表現で不満の声が挙げられてきた。にもかかわらず少子化による学生数の減少や財政改革の必要性という厳しい現実の中ではこれらの不満の声は掻き消されてしまう。そのような中で、きちんとした事例研究に基づく客観的な研究の中で業績評価制度への批判がなされたことは意義のあることである。
本書を読んで気付かされるのは、日本の人文社会系出版界において学術書、研究書の輪郭が非常に曖昧であり、教科書や教養書との線引きが難しいということだ。専門書と一般書の境界線が曖昧で、両者の間に教養書、啓蒙書の領域が存在していることは、しばしば指摘されてきた。その曖昧さは、同一の出版社が高度に専門的な書籍から啓蒙書、一般書、教科書、さらには論壇誌、週刊誌まで出版する、出版社の組織アイデンティティに関わる曖昧さと大きく関係する。出版すべきかどうかの意思決定も査読ではなく、出版社内の意思決定に委ねられてきたわけだが、この部分も外から見ればブラックボックスである。すべて曖昧な状況で動いていたところに、少子化と財政改革という外部要因により改革の声が上から降ってきたというのが昨今の事情であろう。やや皮肉な言い方をすれば、評価の仕組みを作ってこなかったから、現場の状況を無視した外来の査読制度の押しつけを招いたというところであろうか。
学術コミュニケーションの危機を乗り越えるためにはどうすればよいか。明快な解決策が本書で提供されているわけではない。だが、そのための視点は提供されている。それは、ピアレビューや評価システムを学術コミュニティにおいて日常的に実践されている相互批評と相互扶助の最後の総仕上げと位置づける視点である。ピアレビューや評価システムは研究者が同僚の研究者間で行う意見交換や指導する学生への教育活動等の日常的な実践を基礎としているのだから、ピアレビューや評価システムをそれだけ取り出して輸入しても効果はないとの指摘はその通りである。であれば、問題は日本の学術コミュニティに相応しい評価システムの構築が求められているのであろう。そのための示唆になる材料は本書の中で与えられている。ボールは研究者自身に投げられているのである。